社長ブログ
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町のモニメント
町のモニメントも町の環境に適応出来ずに、枯れ始めてしまいました。
安全のため、半分以上がきられてしまいました。
犬の散歩道で夏には木陰を冬の葉の無い時の樹形も結構美しい木でした。環境の変化に適応出来ないとは言え其の前になんとかならなかったのでしょうか。
以前は幹線道路の脇で頑張っていた欅でした。お役目ご苦労さまでした。
其の作業は回りの安全から吊り切りと言う作業でした。吊り切りを見たのは初めてでしたから欅のことは忘れて作業を見とれてしまいました。
平和の祈り
初めての広島です。
広島に来て最初に行きたかった平和記念公園です。
1945年8月6日午前8時15分の悲劇の一瞬、私はこの場所に立つまでは遠く山梨の地で雑誌や、メディアからの情報ででしか、悲劇の現実を知ることは出来ませんでした。ドームと平和公園は今は平和の祈りの為のモニメントとして全世界に知られています。
其の一画に原爆の悲劇を展示した、原爆資料館があります。
原爆資料館は原爆による被害の実相を世界中の人々に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の現実に寄与るために設置され1994年に改築を機に新しい、広島平和記念資料館として開館しました。
東館は被爆前と被爆後の広島の歴史的事実、西館被爆者の遺品と写真などを展示しています。
展示館されている遺品が、我々に語りかけています。
ハローインのその後
ハローインから数ヶ月、しかめ面をしていた主役たちも捨てられて、また来年の栄養として土に戻るのです。
そう思うと楽しそうに笑っている物、泣いているいる物、考えごとをしている物と、人に似せて私はどれでしょうか。
奈良の元興寺
奈良の元興寺
奈良高市郡の飛鳥の地に588年に正式に仏寺建立に着手其の寺が元興寺の全身である、法興寺で地名によっては飛鳥寺とも言われている寺です。
このお寺を建設にあたって、百済の王様が職人を派遣して来たとのことです。其のときの瓦博士が造った日本最初の瓦は、その後この寺が奈良の現在地に移築された際も運び移さて、現在の本道、禅室の屋根に今も数千枚が使われています。
特に重なりあった丸瓦の葺き方は行基葺きと言われています。
1200年もの歳月の中風雨にさらされて耐えて来たこと、それを引き継いで修繕して来た職人に脱帽いたします。以前の元興寺の敷地は放題な広さで、現在の東大寺も元興寺の境内だったとのことです。
もちろん前回投稿した、十輪院も元興寺の敷地とのことです。
1200年の歴史とロマンのあるお寺です。
明かり取り-1
一度は通り過ぎましたが、Uターンして思わず見とれてしまいました。
トップライトにしては少し派手すぎる。
木製の窓、真壁構造からして35〜40年はたっていると考えられる。サンルームとして南にもうけるとしたらばわかるのですが、なぜ北の屋根に硝子を乗せたのか良く分かりません。
考えられることは、当時この家の住人のが美術系の趣味または仕事をしていたのでは無いかと、想像した。
屋根勾配は8寸ほどあると思いますだからと言ってけして変でもなく、細部の水回りまで結構奇麗に出来ているのに関心しました、次回内部を見学に挑戦してみます。
棚田の石積み
甲斐市清川にある棚田良く知られている棚田の風景は田んぼと田んぼの段差は大体が斜面になっていて雑草で青々としている風景が、写真や雑誌で紹介されますが、この場所は田んぼの段差が大きく盛り土では崩れてしまうこと、また耕作面積を広げるためにも、少しでも境界を垂直に近くすることで、耕作面積を確保しているとことまた、観光地で有名な昇仙峡の裏側に面し、清川の上流に位置していて谷間の場所であるがために、耕作をする場所も限られてしまいます。
石垣の隙間を使って稲の乾燥に利用していると思われます。
多分上、下の田んぼの持ち主が同じ方で石垣に階段を付けて作業をしていたと思います。合理的に考えられいます。
この石積みを見ていると、滋賀県に行ったときの織田信長の城跡を思い出します。
石垣と言えばなんと言っても、安土城の石積みでしょう。比叡山延暦寺の門前の坂本にいた穴太衆の建設した、玉石を用いての積み方で自然の素材を使ってあまり手を加えずに積み上げる方法。
安土城の復元模型を見て石積みの技術と、織田信長の建築的なセンスに感動したことも思いだします。
私の地元の甲府城にも穴太衆の仕事とのことです。
もしかしたら、この場所にも其の影響があるのではとロマンを感じました。
野辺山の家
野辺山の家
設計はN設計室の永田先生です。
八ヶ岳も雪景色になったのですがこの季節は中々かおを出してくれません。
今回は朝焼けと八ヶ岳をバックにOMの家を撮影したくて早起きをして挑戦してみました。
朝日は良かったのですが、八ヶ岳は顔を出してくれません、朝焼けの風景は幻想的で本当にすばらしい風景です。
何となく心があら荒れる時間を感じました。其の景色がまた建物を映りだしてすばらしい景色でした。
この写真が取れるまでは、投稿をさけていました。
永田先生の設計で仕事をさせていただいたのは今回で2棟めです。前回は八ヶ岳の南麓に位置して真っ正面には、南アルプスが雄大に見え、其の景色を大きな窓から、取り込んだすっきりとと落ち着いた建物でした。
野辺山の家は永田先生の設計の中でも、これほど屋根の勾配がある建物は拝見したことがありません。
しかし八ヶ岳の景色に映えて、撮影したくなる建物です。
内部は永田さんらしく広い空間を天井の高さで適度にめりはりを付けて、落ち着いた雰囲気と窓からの景色の取り込みで開放感を感じさせてくれます。
再度挑戦して投稿いたします。
ozawa
奈良の十輪院
奈良の十輪院
11月9日、2年ぶりに奈良にに行く機会がありました。
今回は奥村昭雄夫妻が一度は訪れてみたいと言っていたお寺です。
話に聞くと吉村順三先生が大変お気に入りの場所とのこと、私も何回と無く奈良に行っていますがこのお寺は初めてでした。奈良のお寺としては大きな門構えも無ければ外観からも、一見住宅とも取れるほどの大きさですしかし、軒の高さとフサードが絶妙なバランス、なんと言っても柱梁の構造材の大きさのバランスが美しい。
内部の低い天井は棹縁天井となっていて蔀戸が用いられ、垂木を用いず厚板と特異な組物で軒を支えているとのこと
軒および床を低く抑え、屋根の反りが少なし、建築当時の住宅を感じさせる要素が随所に見られます。
この後近くの今西家を見学十輪院が先か今西家が先かと思えるほどのお寺でした。
甲州街道
甲州街道 甲州から東京へ
説明看板ー四方をやまやまに囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。其の甲州街道にあって一番の難所と言われたのが笹子峠です。
其の難所に開削された笹子隧道は、昭和11年から13年3月に完成、抗門の左右にある洋風建築的な2本並びの柱形装飾が大変特徴があります。
昭和33年に現在国道20号線に作られた笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨、長野から東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えていました。
しかし、このトンネルにも政治的権力が感じ取れます。大月側からと反対の勝沼側からとでは全くにても似つかない抗門にびっくりいたしました。
山梨に住んでいながら一度は、見学したいと思っていた。この場所には似合わない風景ですこしがっかりしました。
徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道約200kmを開通させた、笹子峠は日本橋から諏訪までの中間地点、峠は標高1096m甲州街道の一番の難所であったと思われます。
少しさぼったブログを復活とこれからの方向性に、先が見えた方が良いと思いエントリーいたしました。
除草作業車
長野県富士見町の別荘地のBe−hous 建築現場脇で、エンジン音だけで無く小石をはじき飛ばす大きな音がして、何事かと早々に飛び出してみたところ、道路の除草作業車でした。ゴルフ場の除草作業中でも見たことがない代物で、遠くから見るとトラクターが掃除機の吸い込み口をつけて走っている様に見えます。
平らな所ばかりでなく、傾斜も実にうまく操作されています。建築現場を忘れて見とれていました。
四輪のトラクターにアームを取り付けて、その先に芝刈り機が取り付いているようです。
よく見ると巨大な掃除機の様に見えますが、除草した草はその場所に細かく飛び散るという簡単な仕掛けの物です。傾斜を上ったり降りたりすることが無いので、危険性は無く、操作もなれると奇麗に刈り取ることができそうです。